2010年05月07日

最近読んだ、ピカイチ本

歴史や文学史における「謎解き」は、専門家による学問の世界だけでなく、”素人”も参加できる分野として、非常に人気である。

かくいう私も歴史好きだから、歴史の謎に対して「それは●●なのだ」という解答らしき「予感」は一応、持っている。ただし、他人に開陳することなど、たぶんないだろうけれど。

なぜ開陳しないかというと、自説を証明するのが難しくて面倒だからだ。あるいは、すでに誰かが証明したり、または反論したりしているかもしれないけれど、それを調べることも面倒だからだ。まぁ一口でいえば、「専門家じゃないから」ということ。それを調べて飯が食えるわけじゃないからね。

反対に、何も調べ尽くしもしないで「我こそは歴史の真実を知る者なり!」と声高に叫んでも、それは単なる歴史トンデモ本の作者。そんなものには、なりたくもない。

で、結局は、「いや〜、歴史って難しいんだよ」などとテキトーにお茶を濁して、世を忍んで生きるのである。

じゃぁ「自分は、この謎は●●じゃないかって思う。証明できないけど、そんな予感なんだよ!」というスタンスが許されないかといえば、そうでもない。数少ないが、許される人っているんじゃないかな・・・例えば、今回ご紹介する文春新書『源氏物語とその作者たち』の著者、西村亨センセだ。

西村センセは1926年生まれというから、私の父親と同じ84歳のはず。若い時に折口信夫に師事され、以来60年以上にわたって古代学・和歌/物語を研究されてきた方だ(現在は慶応義塾大学の名誉教授)。

正直言って今まで読んだことはないが、たぶんずっと「源氏物語」についても、様々な論文を発表されて来たと思う。

『源氏物語とその作者たち』は、タイトルからもわかる通り、「桐壷」以下の各巻を、文体や物語の流れ、時間的整合性など多角的に分析して、紫式部が書いたと思われるのは、どこまでか。では、残りはどのような思惑で書き加えられたのか。そして、誰が書き加えた容疑者か・・・を推論している。

この問題は、おそらく解答は永遠にわからないだろう。というか、証明のしようもないのだ。言うまでもなく、文体の違い、時間的に整合性が取れない、物語の流れが一応ではない・・・といったことは、指摘できるだろうけど、だからそれが紫式部が書いたものではないということの証明にはならない。まして藤原頼通が書いているかもしれないというところまでいくと、ほとんど「歴史トンデモ本」スレスレになるだろう。

でも、「新書」という、論文発表の場とは違いステージで、西村センセも多少ハメをはずし気味で、それが本の内容の良いアクセント、魅力になっている。好きだなぁ、80歳を超えて、ハメをはずす人って。

念のために言っておきますが、この本は決して「文学史トンデモ本」ではないよ。60年にわたり研究してきた学者が、今までおおっぴらに書けなかった自分の「予感」を、精一杯書いている。その「予感」は、トンデモ本の著者が思いつきで書き流しているのとは全く違う、学究の徒だからこその「予感」なのだと思う。だから私は、最後の方はとても微笑ましく読ませてもらいました。よい本だと思う。

でも終わりの方の数ページは、まるで小説じゃぁないですか!? もう笑うね。センセ、ひょっとすると60年間、これが書きたかったんじゃないですか?!

最後に、西村センセ本人の言葉を引用させていただこう。

「われわれが仮定の上にたってもしやというもの言いを試みるのは、そこに真実に到達する道があるのではないかと切望しての企図なのだ」(前掲書213ページ)。

「センセ、真実は近いかもよ」と私はスナオに思ったのでした。
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