2011年09月14日

ロジャー・ウォーターズというベーシスト



ロジャー・ウォーターズは、ピンク・フロイドのコンセプトメーカーであり、作詞家であり、作曲家であった。つまりはフロイドの心とも頭とも言えるだろう。

しかし、その一方で演奏家・歌手としてのイメージは希薄である。

ウォーターズがフロイドにおいて、極めて重要な役割を果たしているにも関わらず、「演奏するバンド」としてのフロイドにとって、彼の存在感は割と薄い。

その証拠に、ウォーターズが脱退した後のフロイドは、誰が聞いてもフロイドで在り続けているのに対し、ウォーターズのバンドは、スノーイー・ホワイトなど、ギルモアのような音色、フレーズのギタリストをメインに据えなければ、ある意味、成り立っていない(客が喜ばない)からだ。それは冒頭の動画、ウォーターズ・バンドの「DOGS」を見てもよくわかるだろう。

結局、サウンド面での「フロイドらしさ」を一手に掌握しているのはギルモアである。いかにアルバム制作において、ウォーターズがイニシアチブを握ろうが、ライブにおいてはコンセプトよりもサウンドにおける「フロイドらしさ」が大きな比重を占めているし、客(私も含めて)が求めるのもそこなのだ。

海賊版のライブなどを聴くと、スタジオ版でウォーターズが歌っているパートを、しばしばギルモアが歌っているのに気付く。どこかのインタビューで、ウォーターズが「自分の声が悪いのは、分かってるよ!」みたいなことを、自嘲気味に話していたのを覚えているが、あまり歌うことに執着していないのかもしれない(但し、自身の思い入れがたっぷりの『ウォール』と『ファイナルカット』は別だが)。

ミュージシャンのタイプとしては、ウォーターズはライブ優位タイプではなく、スタジオにこもって音を創り上げていくクリエイト優位タイプなのかもしれない。

で、もうひとつの彼の演奏楽器--ベースについては、特に特徴的でもないベースだと思っていただが、ここしばらく、私が参加しているバンド「MEDDLE」でフロイドを演奏することもあって、彼のベースをよく聞くと、どうも一筋縄ではいかない、意外と曲者のような気がするのだ。

確かに実際、すごくオーソドックスなベースラインで、ルートと5度とオクターブを基本に、それらの間を行ったり来たりするだけなので、わかりやすい(「つまらん」とも言える)のは間違いない。

しかし、海賊版の演奏などを聞けば、ちょっと「あれ?」と思うことが多い。歌をギルモアに任せて、結構、好き勝手に音数を増やして弾いているのだ。

「MEDDLE」の次の課題曲が「DOGS」なので、Youtubeなどで「DOGS」のいろんなライブ演奏を聴いてみるのだけど、正規のスタジオ版では1小節に白玉1個みたいなところで、4音、6音とオカズを入れていたりするのだ。意外に、自由闊達に弾くベーシストなのである。

ところが、この冒頭の「DOGS」のライブ演奏をみていると、あまり自由闊達に弾いているフシは伺えない(歳を取ったからかもしれないが)。

ここから推測されることは、ウォーターズと言う人は、テレビやオーディオの前で楽しむ作品として残すもの(スタジオ版と正規のライブ演奏版など)については、あまり演奏家として自己主張せず、むしろバンド全体のプロデューサーとして、まとまりのあるものを創ることに専念する。

しかし、そもそも作品として記録することを考えていない、その場でその時に楽しむライブ演奏では、ベーシストとして遊ぶという姿勢が徹底しているのだろう。

こう考えると、ベーシストとしてのウォーターズの本質は、なかなか実際のライブに行かないとわからないのかもしれない。これが、ウォーターズを「曲者ベーシスト」と考える所以なのである。

で、私も最終的にライブで弾くことを目指している以上は、ライブ演奏の”曲者さ”を追求したいのだが・・・、練習まであと1週間ちょっと。ちゃんとモノにできますかどうか・・・。まぁせいぜい、頑張ります。

posted by taney at 17:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 音楽

2011年09月05日

政治の学校が必要だ


といっても、大学の政治学科の話ではなくて…


内閣が変わって、顔ぶれを見る。む? むむむ? ほぉぉぉ??

私が住んでいる市では、夏休みに小学生とかを集めて「子供市議会」をやっているが、何かそんな感じの顔ぶれ。「どぜう内閣」というより「子供内閣」だな、こりゃ。特に財(以下略)。

昔は…と、ジジ臭く昔話ばかりしていても、本当はラチがあかんが…外務とか大蔵などの重要閣僚というのは、だいたいが派閥の領袖など、大物議員の役職だったのだが。

「派閥」というと、ひと頃、諸悪の根源のように言われていて、「派閥解体」こそが政治革新への近道のように思われていた。確かに弊害も大きかっただろうが、私はそれなりに機能していた部分もあると、ある程度、肯定的に捉えている。いや、私はいっそ「強い派閥」が復活すればよいのに、とさえ思う。

かつて宰相候補(つまり自民党総裁候補)は、たいがいが派閥の領袖であったわけだ(だいたい竹下ぐらいまで)。これは何を意味するかというと、「派閥の領袖」に登り詰めることが、総理総裁になる上での、一種の予行練習になっていたということである。

「派閥」は政治家の、総理候補者の”学校”として機能していたとも言えよう。

つまり「政治力」の学校だ。もちろん、カネとか密室政治とかポストばら撒きの問題であるとか、いろいろヤバい面もあっただろうし、それが故に「派閥が諸悪の根源」となっていた点もあるだろう。

しかし近年の政治がここまでお粗末で、1年やそこらで総理の椅子がどんどん投げ出されている状況を見ると、多少、スネに傷があろうとも、ちゃんと「人の上に立って指導力を発揮する」という訓練を積んだ人に出てきてもらいたくなる。

「総理の座」がかくも軽くなったのは、おそらく海部俊樹とか宇野宗佑あたりからで、「神輿は軽い方が担ぎやすい」といったセリフがよく聞かれたものだ。そのセリフを言ったとか言わないとか噂されるのが小沢一郎。小沢が傀儡的な総理・党首を量産(?)することで、日本の総理の器と国会議員の権威は加速度的に矮小してしまった。そして「派閥」の本来の存在意義と力がなくなり、政治全体のダイナミズムが喪失されたように思えるのだ。

で、小沢一郎は、そういう自分が作った流れのために、何やら自分の影響力が削がれていっているのであるから、まぁ自業自得とも言えるだろう。今の世の中で、もう小沢型”人形遣い政治”が通じなくなっているのも確かだ。

「派閥」の力がなくなった近年の政治で、一番トクをしたのが小泉純一郎であろう。「派閥」があれば、おそらく彼のようなキャラは出て来れないはずで、「それが派閥解消の成果」と言えないこともない。

確かに小泉純一郎には力があった。派閥が力を失う自民党政治の中で、その個性的なパワーがひときわ目立ってしまった。それは小泉純一郎の個人的な能力というかキャラクターに依る部分、大であって、それを誰にでも期待するのは、大きな間違いだろう(今、この方向性を目指しているのが橋下だろうけど、さて、どうかなぁ…)。

しかも小泉がそうであったように、このタイプの為政者は独善的・独断的に走りがちで、よほど徳と見識のある人物でなければ、世の中はエラい方向に行ってしまう恐れがある。例えば20世紀前半の、あのドイツのように…。

「吉田学校」「田中学校(羽田孜の著書名より)」と、派閥は学校にも例えられてきた。派閥は政治にまつわる良いことも悪いことも、実地で体系的に教える場であったわけだ。その機会が、実際の政治の場で失われている。それが日本のここ数年の政治的脆弱さの原因ではないか。

派閥の代わりに台頭(?)して来ているのが、一財界人が私塾として作った「松下政経塾」であることに、職業政治家はもっと危機感を持った方がいいと思う。
posted by taney at 14:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事