2010年05月21日

恨みはらさでおくべきか・・・

小学生の頃、私は出来たばかりの、とある公営施設に出かけたことがある。その時、公営施設の周囲を歩いていたら、通りとか家の前に横幕というか立て看板みたいなのがあって、こんなことが書いてあった。

「この恨み、はらさでおくべきか・・・」

家の前の看板に書かれたこの文句に、子供の私としてはとても怖い思いをしたことを覚えている。あれは、何なのか・・・。

当時その街に、新しい公営施設は作られた。誘致されたその理由は、ゴミ焼却場ができたからだ。

市だったのか、あるいは広域連合なのか知らないが、「この街にゴミ焼却場を作ろう」と、誰かが決めたのだろう。その見返りとして、公営施設が誘致されたのだ。

しかし実際にその街に住む人々の何人かは、公営施設なんぞで誤魔化されなどしなかった・・・というわけだ。その結果が、街にあふれる、あの看板。

だが、そこに住む人たち以外は、そんなことを理解もしなかったし、もちろん手を合わせて感謝するということもなかったはずだ。私も、私の親も、その焼却場の恩恵にあずかっていたはずだが、たぶん親は、そこにゴミ焼却場ができたことさえよく知らなかったようだし。

まぁ、他人の痛みなど、その程度だ。

それと、これはあくまで私の憶測に過ぎないのだが、当時としても様々な異なる思いがあったはず。

「ゴミ焼却場もやむを得んな・・・」「公営施設ができるなら、まぁ認めてもいいか・・・」「ゴミ焼却場関連で、新しい儲け話があるかもしれんなぁ」・・・。

そんな思いもあったのではないかと思うけど、「この恨み、はらさでおくべきか」という看板の主張のインパクトの前に、全ては隠されてしまっていたのではないかと思う。あくまで私の憶測、下種の勘繰りだが・・・。

話題を変えよう。

わが家の近くに「墓地反対!」と書かれた看板がある。もうちょっと行った別の場所には「葬儀場、進出反対!」という看板が立っているところがある。

まぁ、人間誰しも必ずお世話になるところなのだが、それでも反対する声は多い。私自身、近くにできるのは嫌だなぁと思う。正直な気持ちとしては。


ゴミ焼却場、メモリアル施設、そして・・・・・・米軍基地。


普天間問題をニュースで取り上げるたびに、私は小学生時代に見た、あの看板を思い出す。あの看板は、今、どうなっているのだろうか? もう撤去されたんだろうな、きっと。だとしたら、いつ、どんな経緯で撤去されたんだろう?

ゴミ焼却場に恨み骨髄だった人たちは、今、どんな思いでいるのだろう?

おそらく35年以上は経過して、風化した恨みもあれば、休火山のようにただ心の奥にしまわれただけの恨みもあるだろう。うまく儲けた人も、ひょっとしたら、いたかもしれない。その記憶は、もう薄れかけているかもしれない。だから今、聞くべきだと思う。

風化した恨みも含め、儲かったような気がするという薄れた記憶も含め、いろんな思い出話を聞いてみる価値はあるような気がする。

「基地とゴミ焼却場を一緒にするな!」という人がいるかもしれないけれど、住む人が忌避するという点においては、変わりはないはずだと思う。

少なくとも「コンクリートから人へ」と、一度でも謳ったことがあるこの国の政府・与党なら、こういった人々から「心の処理の仕方」について、もっと学ぶべきではないかと、私は思う。
posted by taney at 19:46| Comment(2) | TrackBack(1) | 時事

2010年05月18日

今日のおくやみ

私は音楽ファンであるから、いろんなミュージシャンの名前を知っている。

といっても、名前は知っているが、曲はよく聴いたことがないということも、結構多いのだ(早い話が”知ったかぶり”ということ)。

まぁ「耳学問」で覚えているというか・・・。

しかし、「聴いたことがない」んだから「耳学問」はヘンだな。う〜ん、「目学問」というか「文字学問」というか。

そういう私にとって、典型的な「文字学問」ミュージシャンの一人が、ロニー・ジェイムス・ディオであった。彼の名前を聞いて、「あ〜、レインボウの、ね」とか「ブラックサバスに入ったよねぇ?」とか言えるけど、実は音楽自体はあまり熱心に聴いたことはない。そういう存在。

だからディオが「死亡した」というニュースを見ても、別にショックはなかった。ただ「へぇ〜〜〜・・・・・・・・・・・・・で、いくつ?」ぐらいの感じ。

最初にこのニュース見たのがネットで、その後、いつもの立ち呑み「活力屋」に寄った時に、夕刊に彼の訃報記事が掲載されていないか見てみた。結果は・・・

日経新聞・・・掲載なし
産経新聞・・・掲載なし

やっぱりロニー・ジェイムス・ディオでは載りまへんか? それとも夕刊締め切りに間に合わんかったんか?・・・と思ってたら、最後に見た毎日新聞にちゃんと載っていた。

「お〜、毎日新聞だったら載るんだなぁ」と、ちょっと訳のわからない感慨にとらわれた。

でもそういえば毎日新聞って、訃報記事掲載のハードルが、他と比べて低いような気がする。いや、ちゃんと調べたわけじゃないけど、そんな気がするのよ。だって、毎日って広告掲載のハードルも低そうだもん。

・・・などなどと考えながらロニー・ジェイムス・ディオの訃報記事を読んでいたら、横にもうひとつ載ってるじゃありませんか、ハンク・ジョーンズの訃報。こちらは91歳なので、まぁ大往生か。

ちなみに日経も産経も、ハンク・ジョーンズの訃報は載せていなかったような記憶が。こっちも毎日だけかも。

毎日新聞は、大衆文化に対する理解度、許容度が高いのか、あるいは単に訃報記事担当者の趣味なのか、どっちでもいいけど、頑張れ毎日新聞! いろいろ大変そうだけど・・・。

最後になりましたが、何かと頑張ってこられたロニー・ジェイムス・ディオさん、ハンク・ジョーンズさん、お疲れ様でした。あらためておくやみ申し上げます。合掌。

しかし、ロニー・ジェイムス・ディオの訃報にしても、ハンク・ジョーンズの訃報にしても、正直、全くショックを受けなかった私であるが、今朝の毎日新聞の記事には、マジでショックを受けた。

「スイングジャーナル:7月号をもって休刊」・・・・・・・・・・・・・・・。

おぉ、我が若き時代の、ジャズ「目学問」「文字学問」の師よ! あなたもついに、休刊ですか!
・・・合掌・・・。

え〜と、ところで「ミュージック・マガジン」は、大丈夫ですか・・・?
posted by taney at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽

2010年05月17日

「高原さんぽ」に行ってきた

18日の日曜日、あまりの天気の良さについつい誘われて、妻と一緒に近所をさんぽすることにしてみた。実は前々から歩いてみたいところがあり、急きょ、出かけたのである。

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posted by taney at 19:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 地図・遊歩・風景

2010年05月07日

最近読んだ、ピカイチ本

歴史や文学史における「謎解き」は、専門家による学問の世界だけでなく、”素人”も参加できる分野として、非常に人気である。

かくいう私も歴史好きだから、歴史の謎に対して「それは●●なのだ」という解答らしき「予感」は一応、持っている。ただし、他人に開陳することなど、たぶんないだろうけれど。

なぜ開陳しないかというと、自説を証明するのが難しくて面倒だからだ。あるいは、すでに誰かが証明したり、または反論したりしているかもしれないけれど、それを調べることも面倒だからだ。まぁ一口でいえば、「専門家じゃないから」ということ。それを調べて飯が食えるわけじゃないからね。

反対に、何も調べ尽くしもしないで「我こそは歴史の真実を知る者なり!」と声高に叫んでも、それは単なる歴史トンデモ本の作者。そんなものには、なりたくもない。

で、結局は、「いや〜、歴史って難しいんだよ」などとテキトーにお茶を濁して、世を忍んで生きるのである。

じゃぁ「自分は、この謎は●●じゃないかって思う。証明できないけど、そんな予感なんだよ!」というスタンスが許されないかといえば、そうでもない。数少ないが、許される人っているんじゃないかな・・・例えば、今回ご紹介する文春新書『源氏物語とその作者たち』の著者、西村亨センセだ。

西村センセは1926年生まれというから、私の父親と同じ84歳のはず。若い時に折口信夫に師事され、以来60年以上にわたって古代学・和歌/物語を研究されてきた方だ(現在は慶応義塾大学の名誉教授)。

正直言って今まで読んだことはないが、たぶんずっと「源氏物語」についても、様々な論文を発表されて来たと思う。

『源氏物語とその作者たち』は、タイトルからもわかる通り、「桐壷」以下の各巻を、文体や物語の流れ、時間的整合性など多角的に分析して、紫式部が書いたと思われるのは、どこまでか。では、残りはどのような思惑で書き加えられたのか。そして、誰が書き加えた容疑者か・・・を推論している。

この問題は、おそらく解答は永遠にわからないだろう。というか、証明のしようもないのだ。言うまでもなく、文体の違い、時間的に整合性が取れない、物語の流れが一応ではない・・・といったことは、指摘できるだろうけど、だからそれが紫式部が書いたものではないということの証明にはならない。まして藤原頼通が書いているかもしれないというところまでいくと、ほとんど「歴史トンデモ本」スレスレになるだろう。

でも、「新書」という、論文発表の場とは違いステージで、西村センセも多少ハメをはずし気味で、それが本の内容の良いアクセント、魅力になっている。好きだなぁ、80歳を超えて、ハメをはずす人って。

念のために言っておきますが、この本は決して「文学史トンデモ本」ではないよ。60年にわたり研究してきた学者が、今までおおっぴらに書けなかった自分の「予感」を、精一杯書いている。その「予感」は、トンデモ本の著者が思いつきで書き流しているのとは全く違う、学究の徒だからこその「予感」なのだと思う。だから私は、最後の方はとても微笑ましく読ませてもらいました。よい本だと思う。

でも終わりの方の数ページは、まるで小説じゃぁないですか!? もう笑うね。センセ、ひょっとすると60年間、これが書きたかったんじゃないですか?!

最後に、西村センセ本人の言葉を引用させていただこう。

「われわれが仮定の上にたってもしやというもの言いを試みるのは、そこに真実に到達する道があるのではないかと切望しての企図なのだ」(前掲書213ページ)。

「センセ、真実は近いかもよ」と私はスナオに思ったのでした。