2012年05月31日

ライブの映像、アップしています。

Facebookをやりだしてから、こちらのブログが本当におろそかになってしまっております。
すいません。
FBのアカウントをお持ちの方は、FBのタイムラインをご覧いただいたほうが、私の消息もよくわかるかと思います。

ところで、昨年より何度かライブ活動を行っておりますが、録画したものについては適宜、私のYoutubeのチャンネルの方にアップしております。
今月(5月)6日に行いました「KIT結成30周年記念ライブパーティ」での演奏も、一部、アップしておりますので、よろしかったらご覧ください。

http://www.youtube.com/user/taney1209/videos
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2012年04月26日

ライブパーティまで、あと10日!

いよいよ10日後に迫ってまいりました「KIT結成30周年記念ライブパーティ」。

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栗川、伊利、多根井の3人が就職先の会社で出会って、今年でちょうど30年。
記念に、かつて活動していたバンド「KIT」(3人の頭文字)を再結成して、ライブパーティをやろう!ということになりました。

場所は、アメリカ村のライブ・バー「The Cellar」。
それぞれが現在関わっているバンドや仲間のバンドも参加して、楽しいパーティになりそうです。

気軽なイベントですので、ミナミでお買いもののついでに、ふらりとお立ち寄りください。
開場は14:30。昼酒〜宵酒を、音楽とともにいかがですか?

・チャージ:1500円(2ドリンク付き←おトクです!) MAPは下記。

http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=thecellar&P=8

大阪市中央区西心斎橋2-17-13 新すみやビルB1
TEL 06-6212-6437

●出演バンド、ユニット

【第1部:オープニング〜KITの昔話・昔うた】

1: Fifty-Fifty_ 15:00〜
<フォークロック的な、いろいろ、あれこれ>
(Tanei, Mizohata)

2: KIT 15:30〜
<30年前を思い出しながら、ちょこっと・・・>
(Kurikawa, Iri, Tanei)

【第2部:KITの3人が現在、やっているバンド、ユニット】

3:Ada-coda feat.TORAZO & KURI_ 16:20〜
<苦悩するあなたに贈る、傷口ひろげるアンニュイな歌たち>
(Ada-coda, Torazo, Kurikawa and Friends)

4:MEDDLE_ 17:10〜
<たぶん大阪唯一! Pink Floydトリビュート・バンド>
(Nakagawa, Okazaki, Tanei, Kagami)

5:Gentle Notes 18:05〜
<バカテク・アコースティック・ギターデュオ
     もう、ええ加減にしなさい、君ら・・・>
(Iri, Ueno)

【第3部:ゲスト・・・楽しい音楽仲間たち】

6:The Clutch Band_18:55〜
<1970年代を中心に、ロック、ポップスを>
(Yasuda, Ryotaro, Kensaku, Mizohata and friends)

7:Chassow 19:45〜
<今や大阪を代表する歌謡ロマンスショー?>
(Mizohata, Takahashi, Amemori, Kobayashi)

「ところでKITって何?」と言う方も、どうぞお越しください。要するにお昼すぎ3時から夜の9時頃まで、バンド代わる代わる出演して、ライブをやってみんなで楽しむという場。
GW最終日、音楽とお酒で、楽しいひと時を過ごしましょう!
posted by taney at 20:57| Comment(4) | TrackBack(0) | 音楽

2012年01月14日

今年、最初に読んだ本『最後の色街・飛田』

最近、FBが主体になっているので、ブログするのもすっかりご無沙汰、すいません。さて、久々に本の話でも。

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最近、書店のひら台に山積みになっている(大阪だけか?)ので、ついつい買ってみた。かねてから大阪市の歴史などにも興味があったし、飛田についても非常に興味のある街だったから。

若い時・・・10代後半から20代前半の時ぐらいに、黒岩重吾の『飛田ホテル』や『飛田残月』、『西成山王ホテル』などを読んで、強い印象を持っていたからでもある。それ以上に忘れられないのが、自分がこの街と出くわした時のことだ。

天王寺に住んでいたころ、土曜だったか日曜だったかの昼過ぎ、新世界のジャンジャン横丁で酒を飲んだ後、何気なくブラブラ歩くうち、この街に迷い込んでしまい、不思議な雰囲気にショックを受けた。

目的意識を持って勇んで行ったとしたら、決してあんなショックは受けないのだろうけど、ボーーーーーッと考え事をしながら歩いていて、いきなりオバチャンに声かけられてハッと気付いた時は、もう頭がパニック状態になってしばらく茫然と立っていたことを、今でも鮮明に覚えている。

ま、正直に言って私も聖人君子ではないが・・・、あの出会いのショックさからか、以後、そこには二度と足を踏み入れていない。

肝心の本のことに戻ろう。著者はフリーライターの井上理津子さん。筑摩書房刊。売れているのだろう、発売以来、2カ月で5刷。

いやはや、これは労作である。飛田について、かなり突っ込んだ本が書けたこと自体、感心する。取材に10年以上要したようだが、「いろいろヤバかったんとちゃうの?」と思ってしまう。

実際、井上さんは暴力団の事務所にアポなしで訪問して話を聞いたりと、私が知り合いなら「そんな危ないこと、やめとけよ!」と絶対、言っていただろう。

それぐらいして書き上げた一種のルポ。面白く読んだ。読んだのだが、やっぱりまだまだ含みがあるというか、書けない部分もいろいろあったのだろうなぁ、というのが時々、行間からにじみ出ているような気がする。面白いだけに、そこが一層、気になるのだ。

そう思うと、先に私は「飛田について、かなり突っ込んだ本」と言ったけれど、どこまで突っ込んでいるのか、その深さが気にもなる。

現実以上に、飛田という街をかいかぶる必要はないけれど、まだまだその底の見えない深さを、この街は今でも感じさせているように思うのだ。

大阪、関西の人以外は馴染みのないところかもしれないけれど、もし面白い本が読みたいとお考えなら、私は今年早々の第1冊目として、この本を自信を持っておススメします。

2011年09月14日

ロジャー・ウォーターズというベーシスト



ロジャー・ウォーターズは、ピンク・フロイドのコンセプトメーカーであり、作詞家であり、作曲家であった。つまりはフロイドの心とも頭とも言えるだろう。

しかし、その一方で演奏家・歌手としてのイメージは希薄である。

ウォーターズがフロイドにおいて、極めて重要な役割を果たしているにも関わらず、「演奏するバンド」としてのフロイドにとって、彼の存在感は割と薄い。

その証拠に、ウォーターズが脱退した後のフロイドは、誰が聞いてもフロイドで在り続けているのに対し、ウォーターズのバンドは、スノーイー・ホワイトなど、ギルモアのような音色、フレーズのギタリストをメインに据えなければ、ある意味、成り立っていない(客が喜ばない)からだ。それは冒頭の動画、ウォーターズ・バンドの「DOGS」を見てもよくわかるだろう。

結局、サウンド面での「フロイドらしさ」を一手に掌握しているのはギルモアである。いかにアルバム制作において、ウォーターズがイニシアチブを握ろうが、ライブにおいてはコンセプトよりもサウンドにおける「フロイドらしさ」が大きな比重を占めているし、客(私も含めて)が求めるのもそこなのだ。

海賊版のライブなどを聴くと、スタジオ版でウォーターズが歌っているパートを、しばしばギルモアが歌っているのに気付く。どこかのインタビューで、ウォーターズが「自分の声が悪いのは、分かってるよ!」みたいなことを、自嘲気味に話していたのを覚えているが、あまり歌うことに執着していないのかもしれない(但し、自身の思い入れがたっぷりの『ウォール』と『ファイナルカット』は別だが)。

ミュージシャンのタイプとしては、ウォーターズはライブ優位タイプではなく、スタジオにこもって音を創り上げていくクリエイト優位タイプなのかもしれない。

で、もうひとつの彼の演奏楽器--ベースについては、特に特徴的でもないベースだと思っていただが、ここしばらく、私が参加しているバンド「MEDDLE」でフロイドを演奏することもあって、彼のベースをよく聞くと、どうも一筋縄ではいかない、意外と曲者のような気がするのだ。

確かに実際、すごくオーソドックスなベースラインで、ルートと5度とオクターブを基本に、それらの間を行ったり来たりするだけなので、わかりやすい(「つまらん」とも言える)のは間違いない。

しかし、海賊版の演奏などを聞けば、ちょっと「あれ?」と思うことが多い。歌をギルモアに任せて、結構、好き勝手に音数を増やして弾いているのだ。

「MEDDLE」の次の課題曲が「DOGS」なので、Youtubeなどで「DOGS」のいろんなライブ演奏を聴いてみるのだけど、正規のスタジオ版では1小節に白玉1個みたいなところで、4音、6音とオカズを入れていたりするのだ。意外に、自由闊達に弾くベーシストなのである。

ところが、この冒頭の「DOGS」のライブ演奏をみていると、あまり自由闊達に弾いているフシは伺えない(歳を取ったからかもしれないが)。

ここから推測されることは、ウォーターズと言う人は、テレビやオーディオの前で楽しむ作品として残すもの(スタジオ版と正規のライブ演奏版など)については、あまり演奏家として自己主張せず、むしろバンド全体のプロデューサーとして、まとまりのあるものを創ることに専念する。

しかし、そもそも作品として記録することを考えていない、その場でその時に楽しむライブ演奏では、ベーシストとして遊ぶという姿勢が徹底しているのだろう。

こう考えると、ベーシストとしてのウォーターズの本質は、なかなか実際のライブに行かないとわからないのかもしれない。これが、ウォーターズを「曲者ベーシスト」と考える所以なのである。

で、私も最終的にライブで弾くことを目指している以上は、ライブ演奏の”曲者さ”を追求したいのだが・・・、練習まであと1週間ちょっと。ちゃんとモノにできますかどうか・・・。まぁせいぜい、頑張ります。

posted by taney at 17:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 音楽

2011年09月05日

政治の学校が必要だ


といっても、大学の政治学科の話ではなくて…


内閣が変わって、顔ぶれを見る。む? むむむ? ほぉぉぉ??

私が住んでいる市では、夏休みに小学生とかを集めて「子供市議会」をやっているが、何かそんな感じの顔ぶれ。「どぜう内閣」というより「子供内閣」だな、こりゃ。特に財(以下略)。

昔は…と、ジジ臭く昔話ばかりしていても、本当はラチがあかんが…外務とか大蔵などの重要閣僚というのは、だいたいが派閥の領袖など、大物議員の役職だったのだが。

「派閥」というと、ひと頃、諸悪の根源のように言われていて、「派閥解体」こそが政治革新への近道のように思われていた。確かに弊害も大きかっただろうが、私はそれなりに機能していた部分もあると、ある程度、肯定的に捉えている。いや、私はいっそ「強い派閥」が復活すればよいのに、とさえ思う。

かつて宰相候補(つまり自民党総裁候補)は、たいがいが派閥の領袖であったわけだ(だいたい竹下ぐらいまで)。これは何を意味するかというと、「派閥の領袖」に登り詰めることが、総理総裁になる上での、一種の予行練習になっていたということである。

「派閥」は政治家の、総理候補者の”学校”として機能していたとも言えよう。

つまり「政治力」の学校だ。もちろん、カネとか密室政治とかポストばら撒きの問題であるとか、いろいろヤバい面もあっただろうし、それが故に「派閥が諸悪の根源」となっていた点もあるだろう。

しかし近年の政治がここまでお粗末で、1年やそこらで総理の椅子がどんどん投げ出されている状況を見ると、多少、スネに傷があろうとも、ちゃんと「人の上に立って指導力を発揮する」という訓練を積んだ人に出てきてもらいたくなる。

「総理の座」がかくも軽くなったのは、おそらく海部俊樹とか宇野宗佑あたりからで、「神輿は軽い方が担ぎやすい」といったセリフがよく聞かれたものだ。そのセリフを言ったとか言わないとか噂されるのが小沢一郎。小沢が傀儡的な総理・党首を量産(?)することで、日本の総理の器と国会議員の権威は加速度的に矮小してしまった。そして「派閥」の本来の存在意義と力がなくなり、政治全体のダイナミズムが喪失されたように思えるのだ。

で、小沢一郎は、そういう自分が作った流れのために、何やら自分の影響力が削がれていっているのであるから、まぁ自業自得とも言えるだろう。今の世の中で、もう小沢型”人形遣い政治”が通じなくなっているのも確かだ。

「派閥」の力がなくなった近年の政治で、一番トクをしたのが小泉純一郎であろう。「派閥」があれば、おそらく彼のようなキャラは出て来れないはずで、「それが派閥解消の成果」と言えないこともない。

確かに小泉純一郎には力があった。派閥が力を失う自民党政治の中で、その個性的なパワーがひときわ目立ってしまった。それは小泉純一郎の個人的な能力というかキャラクターに依る部分、大であって、それを誰にでも期待するのは、大きな間違いだろう(今、この方向性を目指しているのが橋下だろうけど、さて、どうかなぁ…)。

しかも小泉がそうであったように、このタイプの為政者は独善的・独断的に走りがちで、よほど徳と見識のある人物でなければ、世の中はエラい方向に行ってしまう恐れがある。例えば20世紀前半の、あのドイツのように…。

「吉田学校」「田中学校(羽田孜の著書名より)」と、派閥は学校にも例えられてきた。派閥は政治にまつわる良いことも悪いことも、実地で体系的に教える場であったわけだ。その機会が、実際の政治の場で失われている。それが日本のここ数年の政治的脆弱さの原因ではないか。

派閥の代わりに台頭(?)して来ているのが、一財界人が私塾として作った「松下政経塾」であることに、職業政治家はもっと危機感を持った方がいいと思う。
posted by taney at 14:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事

2011年08月19日

”投げやり”じゃないからサ

戸田奈津子先生をはじめ、映画などで外国語から日本語への翻訳作業を行ってる方々は、本当に御苦労さまだと思う。

あの短い中で、意味をわからせるように訳すのは、通常の・・・例えば入試で英文を日本語に直すことなど・・・とは違うレベルの難しさがあるはずだと思う。

しかし、いろんな映画とかを見ていくと「え、えええ?」と、英語が怪しげな私でさえ首をかしげる訳文があるのも確かだ。

その反対に、私が今まで見た中で最高の「名訳」だと思ったのは、アメリカ映画『M*A*S*H』の、テレビ版日本語吹き替えのセリフ。

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詳しいストーリーは、またそれぞれ見ていただくとして・・・。

朝鮮戦争で朝鮮半島に駐留している陸軍野戦病院(M*A*S*H)が、慰問の一貫として本隊のアメフト・チームと試合をすることになった。同時に、どちらのチームが勝つか、賭けも始まった。主人公たちのいるM*A*S*Hは、勝って膨大な賭け金を狙うため、元有名プロ・アメフト選手だった脳外科医をスカウトする。その選手のプロ時代のあだ名は、「ヤリ投げのジョーンズ」という。

M*A*S*Hにやって来た「ヤリ投げのジョーンズ」に対し、主人公たちや看護婦たちが群がり、こう聞くのだ。

「どうして『ヤリ投げのジョーンズ』って呼ばれているの?」

それに対するジョーンズの回答が、日本語の吹き替えでは・・・

「”投げやり”じゃないからサ」というものであった。

最初にテレビでこのシーンを見た時、思わず大爆笑してしまった。「お見事!」という感じの訳。もちろん、原語がそうなっているわけではないだろう。日本語字幕のセリフも全く違っていて・・・

「昔、ヤリ投げを・・・」

という、いたってどうということのないセリフだった(DVD版の日本語字幕による)。

原文に正しく訳すというのが翻訳の第一の使命であるなら、前者の吹き替え版の訳者の仕事は、明らかに間違っている。

しかし、この「M*A*S*H」というブラックコメディな映画全体を貫くムードというか、世界観から考えると「”投げやり”じゃないからサ」というセリフが、俄然、魅力的に響くのである。翻訳者の方は、この映画の本質を、非常によく捉えているように思えるのだ。

「M*A*S*H」の日本語吹き替え版を誉める例をあげたが、字幕担当者の工夫についても触れておきたいと思う。この映画、DVDの日本語字幕にもなかなかシャレたものがいろいろある。一例をあげると・・・

「ホットリップスなどホットけ」

これだけ見ると何が面白いのかよくかわからないと思うし、オヤヂ・ギャグ以下にも思えるだろう。しかし、この訳文も「M*A*S*H」という映画の雰囲気を非常によく伝えていると思う。しかも、字幕という「文字」だからこそ伝えられる面白味がある。

たぶん、この映画をご覧になった方はとニヤリとされたかもしれない(ちなみに、このセリフはハモンド将軍がヘンリー・ブレイク大佐に言ったセリフである。テレビの日本語吹き替えでのセリフでは『熱い唇かね? 寝てやりたまえ!』となっていて、これもかなりの名訳である)。

通常の映画なら、ちょっと飛び過ぎの日本語吹き替え、日本語字幕であるが、この映画も持つパワーがそれを許しているのかもしれない(だから、この映画、私は大好きなのである)。

こうなると、もはや言葉遊びに近い段階に入ってしまっている。

「昔、やり投げをやってたからサ」
「ホットリップスのことは放っておけ」

でも、意味的には何の問題もない。伝達効率というものから言葉を考えるなら、必要充分なのである。でも、お腹の底から「フッフッフ・・・」という笑いがこみ上げることはない。

結局、コミュニケーションの力というものは、伝達効率だけでなく、こういった”遊び”の部分に宿るのではないかと思う。しかし、それが上手くはまるか、はまらないかで、コミュニケーションを豊かにするものになったり、無駄話しになったりする。匙加減が難しいのである。

重要なのは、人に何かを伝えるという作業において、”投げやり”じゃないからサ、と言えるだけの汗をかいているかどうかなんだと思う。
(う〜む、なかなか予定調和的な終わり方だったなぁ)

2011年08月17日

おせっかい

・・・といっても、ピンク・フロイドの話題ではなくて。

最近、ネットをやっていると、どうも「もう放っておいてくれ!」と言いたくなることが多くって。

グーグルも、ひと文字入力するたびに、どんどん候補が表示されてくる。打ち間違おうものなら、望みの検索語とは全く違う言葉が羅列され、イラッとすることはなはだしい。

ここのところ、Facebookをよくやっているのだが、あれもページにアクセスする度に、「友達を手伝ってあげましょう」「友達探しをお手伝いしましょう」なんて表示されるのだが、ハッキリ言って、いらぬお世話だって・・・。

誰かがFacebookにアクセスして、そのたびに私の写真が出て「友達探しを・・・」なんて表示されてたら、何か都会の中で孤独にさいなまれているようで、はっきりいって、イヤだもんなぁ。

それとね、友達欲しい時は、自分でちゃんと見つけるって。

あともうひとつ、Facebookでは「知り合いかも?」と、友達の友達なんかを表示するわけだけど・・・たいがい、知らんって。別に、知り合いたいとも思わないって・・・。

ただ、これはたまに有名人が出てきたりして「おっ!」と思う時もあって、楽しいと言えば楽しいですな。この前はジョン・ポール・ジョーンズが出てきて、一人、ニヤニヤしてしまったけど。

あれもこれも、ネットというかSNSを活かした手とり足とりのサービスなんだろうけれど、おせっかいもほどほどにしてもらいたいなぁ、と思う今日この頃。

こういうのって、少しぐらい不自由な方がいいように思うのだが・・・。
posted by taney at 17:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感

2011年07月26日

”クセ”になる曲

腐りかけの臭いチーズとか、あるいはホヤなんかを最初に食べた時に、「何や、これっ! クサっ!」とか言って嫌悪したものの、後になって不思議と食べたくなってきて、気がつけば病みつきなってる、ということがある。

実は音楽にもそういうのがあって、私にとってその代表格がソフト・マシーンの「6月の月(Moon in June)」なのである。

最初に聞いた時・・・高校の時だっかた・・・「何っ、これ?」という感じで全く訳がわからなかったのだが、そのうち、何故だか時々聴きたくなることがあって聴き返しているうちに、定期的に聴かなければ済まない身体(?)になっていたという・・・。

「6月の月」の何がヘンかと言うと・・・。

まぁ通常の曲というのは、だいたいが「A→A→B→A」とか、「A→B→A→B→C→A→B」というような構成がちゃんとあるものだ(と思いこんでいるのだが)。

だから「このテーマ部、心に残るよね」とか「繰り返しのサビのメロディがイイね」などという感想も生まれようというものだ。

しかし、この「6月の月」、あえて構成を書けば「A→B→C→D→E→F・・・」というような感じ。その間、テンポもキーもコロコロ変わるし、ひと言で言えば「取りとめがない」。しかも20分ぐらいあるし(後半約1/4ほどはサックスがメインのインストになるけど)。

下記を一度聴いてもらえれば、よくわかると思う(ちなみに、前半のみです)。



普通だったら、こんな取りとめのない曲、一度聴いたら「もうたくさん」となるのだろうが、さすがにソフト・マシーンというか、ロバート・ワイアットというか、私にとっては実に魅力にあふれている曲なのである。

その魅力とは臭いニオイの中に、本能の奥の奥を刺激するかのような芳しい香りを見つけるようなもの。それは例えばワイアットの上手い下手を超越したボーカルであったり、ヒュー・ホッパーの独特のベースであったり、マイク・ラトリッジのキーボードの何気ない音であったり・・・。

この渾然一体となった中に、どういようもない麻薬的な魅力を見出すことができる、そんな曲なのである。

ところで、このブログを書いていてふと思ったのだけど、なんで曲は「曲」って言うのかね? 何たって、「曲がる」ですよ、「曲がる」。それがなぜ、音楽の言葉に?

ソフト・マシーンの「6月の月」という曲、確かに「曲者=”クセ”もの」には違いない。
posted by taney at 10:04| Comment(7) | TrackBack(0) | 音楽

2011年07月20日

画"牛"点睛を欠く

「あぁ〜ん、もうっ!」と言いたくなるような感じ。というか、ちょっと怒ってますよ、私。

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最近、プロ野球も「もっと見せる」ということに一生懸命になり出したのか、復刻版などスペシャルなユニフォームで試合を行うようになってきた。

そうなると当然オリックス・バファローズも、赤い袖が印象的な「近鉄バファローズ」のユニフォームを復活させるんやろうな・・・と楽しみに思っていたところ、先に阪急ブレーブスのユニフォームを復活させて、「なんでやねん!」と思っていた。まぁ吸収されたほうの悲哀でしょうな。

で、この8月、やっと「近鉄バファローズ」のユニフォームが復活するのだけど・・・・・・・・・・・・

なんで帽子が、あの三色帽とちゃうねん?
なんで、あの岡本太郎の秀逸な猛牛マークがないねん?


もう見に行ったらへんど! まぁ言うてもしゃ〜ないけどね。

でも、やっぱりバファローズの帽子というたら、これやろう・・・。
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しかしオリックス・バファローズという球団も、いろいろと「近鉄バファローズ・ファン」をイライラさせてくれるなぁ・・・。だからファンになり切れないんだよな・・・。

というわけで仕方ないから、「大味で、強いのか弱いのか、よくわからん」というチームカラーがよく似ているセレッソ大阪を応援してる今日この頃です。
posted by taney at 11:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2011年07月19日

オットー・フォン・ハプスブルグの死に思う

オーストリア=ハンガリー二重帝国の最後の皇太子であるオットー・フォン・ハプスブルグ氏が亡くなった。98歳。大往生だと思う。

1990年代の初頭、東欧の共産主義政権が相次いで倒れ自由化された時に、確かハンガリーでは、このオットー氏を招いて王政に戻そうではないか、という声があったように記憶している。

当時の私は「王政復古」、つまり古ボケた体制の復活という感じがして、この声に非常に違和感を覚えたものであった。

王政と共和制を比べると王政の方が古めかしく、再びハンガリーが王政を選択するなら、歴史を逆戻りしているイメージがあったのだ。

しかしよくよく考えると、これもマルクスの影響力大ということであって、最近ではハンガリー王国の復活もあってよかったのではないか、と思うようになってきた。

第一、政治体制を進化論的に捉える考え方は、そもそも共産主義国の崩壊により、すでに破綻しているようでもある。

歴史的に見れば、かつて王政は確かに強固な身分差別社会の中で民衆を抑圧していたが、では現在、王政あるいは天皇制、帝政の国が全て、国民を自由から遠ざけているのかというと、そうでもあるまい。第一、日本はどうなのか?

だいたいが、国民を抑圧する存在は、何も王政というか、政治体制に限ったことではない。企業、因習、人間関係・・・、その種は日常生活の中に無数に存在している。当たり前だが、共和制の国の国民がみんなハッピーというわけでもない。

であるならハンガリーが1990年代に、あえて王政に戻るという道があってもよかったのに、と思ったわけだ。

オットー氏は長く欧州議会議員を務め、反ファシスト、反共産主義の人としても有名であった。仮にハンガリー国王となっても、今更、絶対王政を始めるわけでもあるまいし、できるわけでもないだろう。

20世紀末に王国となり、21世紀を迎えるという状況の中で、ひょっとしたら新しい国王と国民の関係が築けたかもしれないと思うのだ。

日本や、イギリスをはじめヨーロッパの王国が、ずっと続いていたがために、長らくの因習や前例、既得権益にとらわれてできないような新しい王政の在り方が、一度、リセットされた状態でスタートできたハンガリーでは、できたかもしれない。

それがどんなものかと問われると、私にもよくわからないのだが・・・。まぁ私の夢想に過ぎないのだけれど、見てみたかったという思いは、ある。

まだオットー氏の子供たちは残っているし、そういう意味ではハプスブルグ家は続いているのだが、再度、この一族が国王となることは、二度とないだろう。

共産主義政権の崩壊という局面を迎えた、あの当時のハンガリーだけが、たぶん最後の機会だったのだと思う。

とりあえずは、ご冥福をお祈りします。合掌・・・
posted by taney at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事